はみがきこは蜜の味

ちょっと調子に乗ってみよ

自分のこと なのに、 助けを得られなかった。

いや、助けを求めたが、 拒否してしまった。

相談したくても、 声が出る代わりに涙が出る。

 

謝罪したい気持ち、罪悪感、消えてしまいたい、惨めさ。苦痛。

 

理由①どうなったっていいや、って思っていたから。

理由②自分の本心を知っているであろう人に、 外向きの自分 を見せることが、恥ずかしくてたまらなかったから。

ほんの少し残る、救済してほしいという気持ち。

 

肯定される、苦痛。

否定してほしい。あなたが否定することで、それに共感したい。「そうだよね、おかしいよね」と。

共感できることが嬉しい。あなたと共感したい。感情を分かち合いたい。

だから、共感できることの少ない人と、ずっと一緒にいることを望んでいないんだ。

 

① 自分の望んでいないことは実現しないでいいと思っている。この選択は自分じゃない、人にすすめられたからだ、人のせいにしたい。この道を選ぶことはないだろうと今の時点では思っている。

→自分の意志で決める、ということが大事だという価値観がある。

 では、自分の意志とは?

 

② 自分の本心とは違うことを指摘されるたくない。

  自分の「努力不足」がバレたくない。

 「じゃあ昨日何したの?」「じゃあ今日そのために何かした?」と聞かれて

 「何もしていない」と言うのが恥ずかしいんだろう。

 「言葉だけ」と言われるのが恥ずかしいんだろう。

 「言葉だけじゃないよ。これしてる」と思いたいし、言いたいんだろう。

 →目標を持たないといけない、目標に向かって努力を積まないといけないと思っている。でも、結果が大事だとも思っている

  結果を出していない自分への後ろめたさ。

 

あれ、ということは、その目的に対して「何かした」ら、恥ずかしくならないのか。

態度じゃなくて、行動していないことへの罪悪感か。

何でもいいから、やってみればいいのか。そしたらきっと救われる。

 

一歩、一歩だけ、進めることだね。自分でね。結果じゃなくて、自分がどう貢献したかっていうのを、残しておきたがりなんだろうね。

 

 

 

 

 

 

孤独の覚悟

心の何処かで焦っている気持ちになる。

焦りを誰かに共有したいと思う。

自分の焦りを分かってほしいと、願うけれども誰も同じように理解できない。

人と話していても、話していないような気持ちになる。

自分が何処にいるのか、わからなくなる。

これから何処に行くのかも、わからなくなる。

自分の選択を人のせいにしたくなる。

何がよくて何が悪いのか、わからなくなる。

「どれもいい」と言えるよねと思ってしまう。

私はこう思うと言えなくなる。

相手に押し付けている気がして、私の意見を言えなくなる。

意見を押し付けることはしたくないから、黙ってしまう。

黙っていると、その場にいない気持ちになる。

ここにいなくてもいいな。私の居場所はここじゃない。じゃぁどこにあるんだろう、私の居場所は、と、誰かが受け入れてくれるだけの居場所に向かう。

自分から受け入れることはしない。

どんどん、自分のいてもいい場所が小さくなっていく。

きっと、簡単なことなのに。

自分から受け入れる、と。

 

受け入れてもらうことは、嬉しいようで、どんどん自分を疲弊させる。

自分の意志が、存在しないから。

主体に自分がいない。

自分はどこにいる?

 

じゃぁ、人を受け入れてみればいいんだ。

おいで、って手を広げて、

全力で、相手を受け入れる。

私の中に、包み込む。

私がどう気持ちよく暮らすか?より、

相手がどうしたら嬉しいか?何を求めているか?何をしたくて、何を知りたくて、これを聞いてるの?

考えようとすれば、いいんじゃないかな。

 

やる前に諦めるのは、もう終わりにしようよ。

自分でダメだって考えたら、ダメになるよ。

 

人を受け入れる。包摂する。強い優しさというこだわりを持つ。こだわりから逃げるな。

本音を求める人、タテマエの方がいい人、弱みを見せたい人、かっこいいところを見せたい人。

色々な自分を使い分ければいいんだよ。

でも、ベースには、「相手がどう喜ぶか」。自分のためじゃなくて、相手のために、自分を使い分けよう。

考えすぎるのがつらいなら

考えすぎるのがつらいなら、考えるのをやめろ。

考えてなかったことに気づいてつらいなら、同じ場面でまた考えろ。

失敗してつらいなら、次うまくやるために必要なことを、やれ。失敗の理由を考えすぎるな。

 

なんで失敗したの?って1分以上考えると「生まれつきの能力のせい」にしたくなる。

「もう変えられないんじゃないか」って思う。

ううんでも、そんなことないんだな。

 

明日きっと、そんな自分に対して笑ってる。

やってみたら意外とできることもきっとあって、できたねって明日の自分が言ってくれる。

でも「できないだろう」ってやらなかったら、何もできないさ。

「無理だろう」って思ってたら、無理になるさ。

「できるかも?」って思ってたら、できるもんだよ。

すぐじゃなくてもいつかね。

 

人の役に立つ瞬間が欲しいのかも。

呪いという中動態

誰かと一緒にいること。

あなたの声がわたしにしみわたり、色濃く焼きつき、呪いとなる。

呪いは鎖となり、足かせになる時も、背中を叩く道具にもなる。

それによって前に進むことができる時も

あるのだろう。歩みを止める時もあるだろう。

 

けれど、誰かがくれたその呪いは、鎖は、

私自身が具現化したものだ。

だから、私自身でほどいて、解き放つこともできる。

 

鎖につながれるとは、中動態のよう。

 

大丈夫。鎖はやがてゆるみ、ほどかれる。

一人になって鏡を見つめてごらん、何もつながってないでしょう。

 

恥を捨てること、過程を見せること

恥を捨てることは、どこに行っても、誰といても、変わらない自分であることだと思う。そしてそれは、どこにいても変わらない自分でいられる安心感につながる。

 

私はとても恥ずかしがり屋。ただ、初めて会った人とでもコミュニケーションできる素養はあるつもりだし、自己開示だって簡単にできる。「私こう見えてクソなんですよ」とか、「こういう経験してきたけど本当は自信ないんです」とか、あっさり言えちゃう。

でもそれってただの「意識低いアピール」で、意識高いことを言って否定されるのが怖いだけ。

 

いちばん苦手で恥ずかしいのは「過程を見せる」こと。

ブログを書いている過程、イラストレーターを使ってチラシをデザインしている過程、中学時代に戻れば絵を描いている過程、そして何かにチャレンジしている過程も。

しかもその対象は、先輩とか上司とかその道のプロとか、「自分より優れていると思う人」であればあるほど「見せたくない」し「浅はかさがバレたくない」。

 

「自分が表現するもの」に「その道のプロ」から「否定される」のが「恥ずかしい」んですね。イラレでせっせと何時間もかけてデザインしてるところを見られて、「うっわクッソ非効率だね!」「まだまだだね」って言われると落ち込んじゃう。ちなみに一番つらいのは「本当はやりたいって思ってないんでしょ?」という言葉。

何その根本否定!でも本質が好きだからこそ、この言説に惑わされやすい私。「本当は〜」って言う男はムカつく!たいてい逆のことを言えば当たるでしょ。プン!(でも、自分も一部納得できるから受け入れてしまうメンヘラさ)

そして「私ダメなの」って先発の意識低いアピールは、こういうツッコミを先回りして回避するための術なんだな。

 

「そうなんです、その通りで…」←今までの私。本音ベースで、意識低くてもいよね私たち〜という結論になっちゃう。

「でも、やりたい」「それでも絵うまくなりたい」「うまくいくか分からないけどやってみたい」←こう言えたらいいな。恥や不安をぐっとこらえて。

 

というわけで、何も考えずに「過程を見せる」ってとってもいいことじゃない?と気づきました。

あえて色々な人が通るし見るところで「論文を書く」とか「絵を描く」とか「考えの過程を伝える」とか、やってみちゃうとか。そのとき意識低いアピールはぐっとこらえる。

 

プロに否定されるのが恥ずかしい、否定されたからやめる、じゃ、自分はどこにもいなくなる。プロに出会って突っ込まれたら終わり。プロのいない世界や界隈なんて無いから、どこでも生きていけなくなる。自分の存在は消える。

 

清貧で崇高な目標はまだいらないから、「過程を見せる」「意識低いことは言わない」これだけやってみよ。人生なんてすべてが過程で仮定だもんね。(うまい!)