はみがきこは蜜の味

ちょっと調子に乗ってみよ

恥を捨てること、過程を見せること

恥を捨てることは、どこに行っても、誰といても、変わらない自分であることだと思う。そしてそれは、どこにいても変わらない自分でいられる安心感につながる。

 

私はとても恥ずかしがり屋。ただ、初めて会った人とでもコミュニケーションできる素養はあるつもりだし、自己開示だって簡単にできる。「私こう見えてクソなんですよ」とか、「こういう経験してきたけど本当は自信ないんです」とか、あっさり言えちゃう。

でもそれってただの「意識低いアピール」で、意識高いことを言って否定されるのが怖いだけ。

 

いちばん苦手で恥ずかしいのは「過程を見せる」こと。

ブログを書いている過程、イラストレーターを使ってチラシをデザインしている過程、中学時代に戻れば絵を描いている過程、そして何かにチャレンジしている過程も。

しかもその対象は、先輩とか上司とかその道のプロとか、「自分より優れていると思う人」であればあるほど「見せたくない」し「浅はかさがバレたくない」。

 

「自分が表現するもの」に「その道のプロ」から「否定される」のが「恥ずかしい」んですね。イラレでせっせと何時間もかけてデザインしてるところを見られて、「うっわクッソ非効率だね!」「まだまだだね」って言われると落ち込んじゃう。ちなみに一番つらいのは「本当はやりたいって思ってないんでしょ?」という言葉。

何その根本否定!でも本質が好きだからこそ、この言説に惑わされやすい私。「本当は〜」って言う男はムカつく!たいてい逆のことを言えば当たるでしょ。プン!(でも、自分も一部納得できるから受け入れてしまうメンヘラさ)

そして「私ダメなの」って先発の意識低いアピールは、こういうツッコミを先回りして回避するための術なんだな。

 

「そうなんです、その通りで…」←今までの私。本音ベースで、意識低くてもいよね私たち〜という結論になっちゃう。

「でも、やりたい」「それでも絵うまくなりたい」「うまくいくか分からないけどやってみたい」←こう言えたらいいな。恥や不安をぐっとこらえて。

 

というわけで、何も考えずに「過程を見せる」ってとってもいいことじゃない?と気づきました。

あえて色々な人が通るし見るところで「論文を書く」とか「絵を描く」とか「考えの過程を伝える」とか、やってみちゃうとか。そのとき意識低いアピールはぐっとこらえる。

 

プロに否定されるのが恥ずかしい、否定されたからやめる、じゃ、自分はどこにもいなくなる。プロに出会って突っ込まれたら終わり。プロのいない世界や界隈なんて無いから、どこでも生きていけなくなる。自分の存在は消える。

 

清貧で崇高な目標はまだいらないから、「過程を見せる」「意識低いことは言わない」これだけやってみよ。人生なんてすべてが過程で仮定だもんね。(うまい!)